グッとくる、テキスト

一人で、たまに行く焼き鳥屋のカウンターで「死者とのコミュニケーション」(『昭和のエートス』 内田樹・著)を読む。そういえば、この店になる前の居酒屋だったときに、ティモシー・リアリーの晩年の書をビールを飲みながら読んだことを思い出す。

『昭和のエートス』には、グッとくる、テキストが散りばめられている。内田先生、恐るべし。

昭和のエートス

昭和のエートス

コピーキャットによる犯罪の無限の増殖を防ぐために私たちがなすべきことは、事件を「記号的に」解釈することではない。「記号的に解釈されることをめざしてなされる事件」の発生の構造そのものを解明することである。
「記号的な殺人と喪の儀礼について−秋葉原連続殺傷事件を読む」

まことに不思議なことだが、そういうふうにして、私たちが絶えず死者に問いかけ、その臨在を懇請することによって、死者は立ち去るのである。逆に、死者にむかって「あなたに関する情報はすべてファイルされた。あなたの願望や夢ややり残した仕事のすべてを私たちは網羅的に知った」と告げられると死者は立ち去ることができない。「だから、もうあなたはここにいる必要がない」と告げられると死者は立ち去ることができないのである。
「死者とのコミュニケーション」

幕末の国粋主義者佐藤忠満は「日本」という国名は属国性をはしなくもあらわにする国辱的呼称であるから、これを捨てるべきだと主張した。今日の愛国者たちもその思想を一貫させようと望むなら、佐藤に倣って「日本」という国号の廃止と、その国号を図像化してみせた「日の丸」の廃止を政治綱領の第一に掲げるべきであろう。
「日本属国論」

だが、創造というのは自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験のことである。それは言語的には自分が何を言っているのかわからないときに自分が語る言葉を聴くというしかたで経験される。
「まず日本語を!」

子どもたちはこれから学ぶことになる教科について、それを学ぶことの有用性や価値について語る言葉をまだ持っていない。しばしば「それを学ぶことの有用性や価値について語る言葉をまだ持っていない」という当の事実こそが彼らが学ばなければならない理由だからである。
「彼らがそれを学ばなければならない理由」

論語に「述べて作らず」という言葉がある。「私は先賢がすでに語ったことを祖述しているにすぎず、ここに私のオリジナルな知見は含まれない」という宣言である。今から二五00年前に孔子がそう言って以来、近代になるまで、作者たちは自分の作物は「自分発のもの」ではなく、「先行世代から継承し、次代に贈るもの」とみなしてきた。こちらの方がたぶん芸術史的には「標準」的な考え方である。
「著作権についての原理的な問い」