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Web is dead

昨年秋に話題となったクリス・アンダーソンの"THE WEB IS DEAD"の全訳GQ JAPANから期間限定公開されている。
GQ JAPAN
本誌の解説で小林弘人氏も言っていたが、マイケル・ウォルフの指摘のほうが興味深い。

グーグルはオープンなシステムと公平なアーキテクチャの象徴と言えるが、皮肉にも、見事な戦略を持って、そのオープン性をほぼ完全にコントロールしているのだ。これほど見事に産業全体が1人のプレーヤーに従属することは、ほかでは想像できない。グーグルのモデルを映画産業に当てはめれば、映画を配給するのは1社だけで、さらにそこはすべての映画館も所有していることになる。

重要なのは、創業者のマーク・ザッカーバーグが帝国を築く明確なビジョンを持っていたことだ。そのビジョンには、フェイスブックというプラットフォームの上に開発業者がアプリを作り、アプリは常にプラットフォームに従属することがあった。それは権力の根本的な移転と言えるだけでなく、権力の特別な集中だった。無数の起業家からなるウェブが、1人の大物起業家のビジョンに支配されるのだ。

結局のところ、ウェブは編集者ではなくエンジニアによって作られたものであり、オンラインメディアとデザインに関する最も先進的なフォームであるはずのウェブサイトが、HTMLによって構築されているゆえに、広告媒体としてはかなりひどいものだという事実にこれまで誰も関心を払わなかったのだ。

"WEB"という用語に何を込めるか?で、クリス・アンダーソンとマイケル・ウォルフの立ち位置は多少異なるようにみえる。
ただ、HTMLの限界(仮にHTML5になったとしても…)についての議論は今に始まったことではない。

ジェイ・デイヴィッド・ボルター+ダイアン・グロマラ著の「メディアは透明になるべきか」(原題"Windows and Mirros")は、シーグラフ2000を題材に書かれた2003年刊行の本だ。この「はじめに」の中でWWWの歴史を語っている。

 デザイナーたちはすぐさま、構造主義者の言語であるHTMLをマスターした。ウェブの画面を十分にコントロールできないこの言語について、デザイナーたちは"未熟な言語"だと見なした。構造主義者たちは、情報をいかに組織化するかという彼らの考え方に従って、ページの外観ではなく、構造(パラグラフ、リスト、リンクなど)を記述する言語としてHTMLを作ったためであった。外観は各ユーザーが決めるというのが、テクノロジーの民主主義という倫理に基づく構造主義者たちの信念であった。
 ここが、構造主義者とデザイナーの、宗教的とも言うべき大きな違いであった。構造主義者は、形式と内容とは分離し得るし分離すべきだと信じる分離主義者であり、ウェブ・サイトはコンテンツをユーザーに流すためのパイプだと思っていた。凝った視覚的デザインは、むしろ情報の流れを疎外するとして反対した。他方デザイナーたちは、一神論者(ユニテリアン)であって、形式と内容とは分離できないとの確信を持っていた。言葉と画像の入念な相互作用を通じてメッセージを伝えるのがウェブ・ページであるとし、印刷画面を完全にコントロールして楽しんだように、ウェブの画面も(程度の差はあれ)完全にコントロールすることを望んだ。デザイナーにとって、ウェブ・ページは経験するものであった。そのためにさらに多くのHTMLタグを要求した。

歴史はまさに繰り返している。HTMLはCSSによって表現力を高めてきたが、そのHTML5というウェブの世界を支配しているのはGoogleだ。一方で、Googleの影響が及ばないソーシャル・メディアをFacebookが開拓し、モバイル・インターネットではAppleが先陣を切っている。ウェブという技術が死んだわけではないが、そのイニシアティブを握るべきプレイヤーの新旧交代は次第に進みつつある。
10年前には構造主義者とデザイナーの二項対立で議論できた流れも、今ではプラットフォーム層で語る必要がある。
重要なのはUIだけではなく、配信方法がどういう仕組みに依存しているか?どうパッケージングされているか?という点にある。
ソーシャル・メディア/モバイル・インターネット(スマートフォン)の世界は、そういう意味でも従来のPC中心のウェブの世界とは大きく異なるのである。