「ウェブ時代をこう生きてみたい」

「ウェブ時代をゆく」欲しい!


『ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか』

インターネットをあまり使わない人から見れば、「パソコンばかり使う人はコミュニケーション力の薄い人」と見えるようだ。僕自身も昔はそう思っていた。

理数系の高校にいたが、関数電卓やBASICに興じるクラスメイトを横目でみて「プログラムなんて何が面白いんだろう?」と思っていた。
理系の大学に行ったが、卒論研究のときもレディメイドのデータとプログラムを調達して済ませてしまった。
自分でパソコンが欲しいな、と思ったのは、大学を卒業して社会人になるときだった。
それもプログラミング目的ではなく、HyperCardでできた電子雑誌(!)を購読したかったからだ。

TeleFinder(Macで実現できるBBS通信ソフトウエアの当時の定番。FirstClassと人気を二分していた。)を使ったBBSも運営していて、そこにバーチャルな街を作って読者が住人になっていくことを提唱していた。
今では随分聞いたことのあるような話だが、当時としては刺激的なメディア体験だった。
スタンドアローンで使っていたMacが、その時初めて電話回線を通じて他のマシン(サーバ)と通信をした。ダウンロードされたアイコン・データが並んだデスクトップを見ただけで感激したものだ。

ある時から、僕にとってパソコン通信はコミュニケーション・ツールとしてなくてはならないリアルなものになってきた。
それは、FM番組と連動したフォーラムでMIDIデータのやり取りが始まり、そこで知り合った連中と実際にライヴハウスで一緒にMacを使った内臓音源や MIDI演奏をやるようになったからだった。
その後、仲間と作ったデジタル・マガジンをアップしたり、サウンド・データを貯め込んだりしているうちに、知り合った人たちと実際の仕事上つき合う機会も増えていった。

「最初から仕事でメール使ってしまうと、けっこう面倒臭くなることもあるんだけどね。(君みたいに)そんな風にネットで知り合った連中とうまく付き合っていけたのは、幸せだよ。」と、あるとき仕事場の先輩から言われたことがある。
「電子メールとの幸福な出会い」は、その後のパソコン・ネットワークを生活の中でどう活用していくか(仕事のためだけ?それとも、遊びも?)ということに大きな影響があったようだ。

もう随分昔の話だが、知人のプログラマはこんなことを言っていた。「趣味で作ったちょっとしたプログラムやデータは、NIFTYにアップしちゃうんですよ。もちろん手元にもフロッピーなどで保管するけど、そうすれば、自分の作ったものを探したいとき、自分のIDで検索すればすぐに一覧できますからね。手元のフロッピーを探すよりも、そのほうがずっと便利ですよ」

一時、僕も見習って某ネットを使ってそうしていたことがある。プログラムではないがテキストやサウンド・データ等だ。今でもそのネットは存在するが、残念ながらアップしていたライブラリ自体がクローズしてしまったので、ダウンロードする術がない。そのネットへアクセスする機会もほとんどなくなった。
無論、今使用しているWebスペースにしても、自前のサーバではないわけで、そのISPなりサービスなりがクローズしてしまえば、状況は同じかもしれない。
しかし、自分の手を離れてミラーリングされる可能性を持ち、優れた検索エンジンが豊富に揃ってきたインターネットのWeb空間は、自分のためのアーカイヴとして、まだまだ面白い使い方ができそうだ。

・・・という文章を書いたのは、1998年の9月だった。

つまり、プログラマーではなくコミュニケイターとしてネットに親しんできたスタンスは、基本的に今も昔も変わっていない。さまざまなWebサービスを体験しては、そのテイストを味わい、ささやかなコミュニケーションを楽しんでいる。

自らのメシの種であり趣味の世界でもあるウェブの時代・・・。
RSSフィードをはじめとするフロー情報とVOIPのようなリアルタイム・コミュニケーションとしてのネット活用は、今後ますます加速していくだろう。
そられとは適度な距離感を持ちつつ、自らの立ち位置は、歴史を蓄えるアーカイヴ性にフォーカスしていく。
「自分のためのアーカイヴ」だけではなく「世界のためのアーカイヴ」としてのサービス(もちろん、単なるストレージや配信サービスじゃないよ)を開拓してみたいと思う。

9年の歳月を経ても、まだ自分は同じようなところを旋廻しているのかもしれない。
しかし、ベースとすべき技術やサービスの全体像やターゲット層については、より鮮明なビジョンを得ることができた。
セマンティックWeb構想の一部として、Web 3.0と呼ばれるべきものがあるとすれば、まずWebの持つアーカイヴ性についてこそ、もう一度深く議論する必要があるだろう。